zanzibar 2-2. dec. 2003 午後。ドォ〜ンドォ〜ンと言う鈍い音で目が覚める。午後の微睡みを切り裂く音の正体を確かめるべく外へ出てみると、サルーがおれを見つけ上を指差して何か叫んでいる。その先には、高い椰子のてっぺんで実を落とすガキの姿が。見た事あるぞ、こんな光景。テレビでね。高さの感覚って距離の感覚程鋭くないからハッキリとは解らないが、目測でビルの5階程はありそうだ。いや、もっとかな? 足に引っ掛けた縄だけで、あんな高さまで行くとは恐れ入る。テレビで見るのとは当然別格の迫力だ。黄色掛かった鮮やかなグリーンの実が、硬い音を立てて地面に落下する様は、正に空からの謎の物体だ。当たったら死ぬね。一つ拾ってサルーがナイフでさばいてくれた。ワイングラスのように持ちやすくなってる辺り、かなり泣かせる。ココナツジュース乾杯〜。中には波々と果汁がつまっている。生温くはっきりしない味は正直死ぬ程美味くもないが、このシチュエーション込みでかなり楽しめる。実は昼寝前に遊びに来たデュラからもココナツジュースを貰っていて、なかなかの厳しい状況だが、みんなが嬉しそうに見ているのでありがたく飲み干す。更に殻は割って、内側の白い部分が食べられるのだ。何年か前に行ったモルディブで、ダイビングの後に船の上でこれを食べたのを思い出す。口が塩になっているので、この微妙な甘味が何とも言えずありがたいのだ。 散歩出発。浜辺に添って南下する。時間はたっぷり、疲れるまで歩き続けるつもりだ。すれ違う人達に声を掛けて撮影しながらズンズンと歩き続ける。便所サンダルを脱ぎ、裸足で砂の感触を楽しみながらグリグリと進んで行く。すると突然砂浜に貝殻を綺麗に並べて客を待つ呑気な土産屋に出くわした。なかなかインパクトのある店だ。均等に並んだ小振りの宝貝が、購買意欲をそそり、早速まじまじと商品を見せてもらう。一方で抜かりなく撮影も済ませるのだ。完璧なディスプレイのお陰で、全体の雰囲気は最高なのだが、幾つか選ぶとなると中々難しい。互いが他を良く見せあって並んでいるせいだ。気になるヤツをはしから手に取って、かなり真剣勝負と言うような様相を呈してきた。最初は柄物が良く見えていたが、吟味し過ぎてわからなくなってしまった。そこで気分をリセットし、真っ白いヤツを3つ貰う事に。と、ここで重大な事に気が付いた。金がないカモ!慌ててポケットを探ると、コインケースの固い感触が。助かったと思いつつ即座に中身を確認。しかし500sh札と60shがコインであるだけ。まるで日曜日の夕方に「サザエさん」のテーマ曲が流れて来たときの、物悲しさにも匹敵するトホホ状態。懐が寂しきゃトーク&スマイルを武器に交渉だ。と言うよりも、500shを店の兄ちゃんに見せて、「これしか無いけど、この白いの3つくれる?」と質問。案の上渋い答えが帰って来た。そうだろうな、これじゃコーラ2本分だもんな。などと考えつつも、海から拾って来ただけだろなんて傲慢な気分が頭をもたげて来る。「じゃあその、ケースも一緒だったらいいよ!」と、新しい妥協案が提示される。こいつかぁ〜、円筒形の白いコインケース。これは確か15年前に行った2度目の海外旅行先グアムで買ったものだ。今思えばたかがグアム。しかしその頃は、あのバカトロピカルなムードに心酔していて、絵葉書のような景色に酔い、エメラルドブルーの海に溶け、オプショナルツアーに申し込みまくってバカな遊び方をしていたのだ。体験ダイビング(水深たった5m)トローリング(マヒマヒ釣れたっけ)にサンセットクルーズ(なぜかそーめん食ったな)、米軍基地内のプライベートビーチツアー(誰もいなくてサイコ〜)、パラセイリング(高くてサイコー)、お約束のバナナボート(乗らなきゃ帰れないぜ!)仕上げは実弾射撃(ぶっ殺す!)。夜になっても海から離れられず、ホテルの前のビーチでプカプカ浮かんで、真上にきらめく星空を眺めたりして。アホだったけど楽しかったなぁ〜。このコインケースはその時のアホツアー潜水艦『アトランティス号』の記念に買ったのだ。それ以来、何処の海へ行くにもこいつと一緒だった。タヒチもモルディブもボルネオも沖縄も伊豆も千葉も。よく物をなくすおれとしては、例外的に長く付き合えたお気に入りの逸品だ。擦れて殆ど消えてしまったブルーのアトランティスのロゴが、おれとの別れを告げているようだ。無邪気でアホな時代との決別なのかも知れない。貝の兄ちゃんの手のひらにグッとそいつを押し込んで、その場を後にしたのだ。と、振り返り言ってみた「なんかオマケ付けてくれない!」 一文無しのすがすがしさで、散歩を続ける。被写体にはもって来いのガキに出くわし撮影。珍しく金を要求される。う〜ン、金は無いんだよナ。と、ブツブツ言いながら袋のポケットに手をやると、又しても白い塊が。そっと取り出してみると、年期の入ったフリスクじゃないか。ケースをスライドさせて中身を確認。白いはずのフリスクの粒が、薄黄色に変色している。相当に汚らしく怪しいが、あげられそうなのはこれしか無い。最低の礼儀としてひと粒口に放り込んで毒味をしてみる。だらしなく口の中で崩れて行くだけの甘い塊に変わり果ててしまっているが、最低限のフリスクらしさは感じられた。多少の後ろめたさを押し殺しガキ軍団にそれを渡すと、飛び跳ねるように騒ぎながら走っていってしまった。さっきから準備不足に祟られっ放しだ。 適当に遠くまで来た事に気が付いたのは、すれ違う白人が増えてきたからだ。弛んで醜い体のおばさんやおっさんに限りなぜかジョギングをしている。わざわざここまで来て走らんでもなぁ〜。まあ日頃やらない事をやりたくなるのが、こんな場所ならではでもあるんだが。それにしてもだ、そろいも揃って緩い水着の股間から薄汚いマ○毛をはみ出させるのは何故だ! サンパラの隣の可愛いフレンチ女でさえカッコ良く気取った水着と態度のくせに、マ○毛はボーボーという間抜けさだ。おしゃれとファッションの国フランスったってたがが知れてるって事か!それとも、マ○毛は立派なファッションなのか? いつしか、白人客を当て込んだリゾートホテルが立ち並ぶエリアに突入。なぜか目の前の素晴らしい海辺ではなく、海から一つ奥まったリゾートホテルのプールサイドで、ふんぞり返った白人客たち。これが、有名なヨーロピアンの馬鹿バカンスと言うモノですね。だらしなく寝転がった白い客の側で甲斐甲斐しくオーダーをとっているのは、もちろん現地の黒い人達。アングロとニグロ、グロ同士のくせに何時もこの構図は変わる事が無い。ここは、アフリカ。アフリカ人が働いてて当たり前。でも、ここがヨーロッパでも全く逆にはならないんだよな。エラソーなのが気に入らないんだよなぁ〜。タレ乳にハミマ○毛、気色悪いシミソバカスにとどめのアザ。だいたいカタチが変だよ、みんな。醜く弛んだ搾取の鬼を相手に、惨めな客商売しなきゃならないなんて、明らかに一種の不幸だろ。 更に進んで行くと、白いビーチに黒いおばちゃんの塊が。とにもかくにもまず「ジュアンボォ〜!」。白くても黒くても女のカタマリは騒々しい。凄い勢いで、まくしたて何かのノートを見せてきた。魚、蛸、船などをモチーフにしたタトゥ屋のようだ。客はプールサイドでふんぞり返っていて、せっかくのビーチサイドは閑散としている。おれはいいカモというわけなのだが、あいにくもう金は無い。フリスクも無い。フリスクじゃどうにもならんだろうがね。まあタトゥに興味もないんだねど。適当にやり過ごし進むと、またしても黒いおばちゃんの塊。今度はマッサージ屋。バリのクタにでも来たみたいな雰囲気だ。行った事ないけど。こんなのに集団でモミモミされたら笑い死んでしまうだろうな。おれはマッサージは大の苦手で、散髪屋でもマッサージタイムはグッと我慢の子なのだ。変に断ると「なんで苦手なの?」とか「珍しいですね!」とか面倒臭い会話が始まってしまうので、もう我慢で押し通すのだ。だからこのシチュエーションは、あまりよろしくないのだ。青空をバックに弾けるおばさんのバカ笑いと言うのも悪くは無いが、遠慮させてもらった。どやら辺りはおばちゃんの浜という様子になって来たので、そろそろ村の方へ足を向ける事に。しかし、今頃になってやっと気付いたけど、サンパラに宿を決めていなかったら、今見て来たようなリゾート物件に世話になるハメになってたんだな。ひょぇ〜、想像したくねぇ〜。リゾートとリゾートの隙間で健気にひっそりと佇むサンパラに出会えたのは、本当にラッキーだったようだ。ビーチに地元の人歩いてないし、子供も遊んでないしね。サンパラの前はそう考えると、奇跡のエリアかも。自分のたまたまの旅の選択を讃えつつ、村へ向かう。 椰子林の小道でバッタリ出くわしたのは、昨日のイルカツアーのキャプテン為五郎。お互い「グォ〜!」などと、奇声で再会を喜ぶ。「何してる?」「散歩だ。」「この辺に住んでるの?」「ああ〜、すぐそこだ!」などと、たわいの無い会話。しかし、為五郎が次に発した言葉は、「そのバンダナいいな!おれにくれよ!」と言うお決まりの台詞だ。「じゃあ、キャプテンのと交換だ!」と為五郎の頭を指差しながら応戦。「いやぁ、これは実は弟のでな、交換出来ないないんだよ!」などと、とぼけヅラだ。おれのバンダナは日本の最南端、波照間島の土産屋「モンパの木」にて購入した、お気に入りの逸品だ。本当はそんな見え透いた嘘を付くような野郎にやるわけにゃいかんのだが、イルカツアーで楽しませてもらったからな。寛大にプレゼントしようじゃないの。「後で、自分のやつ持って来いよ!」と、この物々交換の顛末を知りながらも、潔く自分のを差し出すのだ。喜びを包み隠さず、手にしたバンダナをギョロ目でジロジロと為五郎。喜んで貰えりゃ悪い気はしない。上機嫌な為五郎と、気分良く別れた。 椰子林が途切れて急に景色が広がった。そこでは、ガキから高校生、もう少し年の行った大人までが、サッカーに夢中になっている。どうやら学校のようだ。かなり広い校庭で、楽しそうな笑い声や叫び声と共に、みんなが走り回っている。スラリと伸びた裸足の足が、なかなか格好良い。校庭の隅では、3〜6才位の本当のガキンチョがおぼつかない動きで、兄ちゃん連中のサッカーを必死で真似て遊んでいる。サッカーそのものには、あまり興味ないけど、この校庭の雰囲気は中々良い感じだ。まあこれもひとつの懐かしい光景なんだろうけど、世代のグラデーションが一つの校庭にあると言うのがイイね。こうやって、自分より少し上の世代を見ながら、一緒に大きくなるってのは中々健全だ。遊びながら、家の仕事を手伝いながら、船に乗って海に出ながら、自分より大人の世代とうまく繋がって、大人の凄さ、自分の足り無さを知らず知らず自覚して行く。それが大人へなる事への自然な憧れになる。一方で上の人間も、小さい頃から自分より下の面倒を自然に見ているお陰で、ある日結婚して子供が出来ても、狼狽えず自然に親になれる。なだらかな世代のグラデーションが自然に機能してるんだよね。今まで数多く行った外国で、特に第三世界の国々で子供も大人も、女も男も、逞しくて凛々しくて賢く見えるのは、その年齢らしく生きている一方で、ちゃんと大人になろうとしてるからなんだろうな。でもって日本人が何歳になっても大して大人に見えず、実際幼稚なままなのは、年齢や学年、趣味や会社など特定のグループに入り込んで、他と交わらないからなんじゃないかなって思うね。まあ、ろくに近所付き合いも無きゃそうなるしかないんだけどね。だから子供のまま突然親になってしまって、どうしていいかわからず、アホで幼稚な事件なんか起こしたり、小さい友達が家ん中に一人増えたような感覚しか無かったりと、つくづく幼稚なんだろ。まあ、テレビのニュースの見過ぎで余計にそう感じるのかも知らんけどね。それでも最近特に思うのは、同世代で子持ちの友達が結構いるんだけど、奴等はおれより全然大人なんだよ。何故かと言う事を少し考えてみたんだけど、親のイメージって完成された大人でしょ、でも実際には20〜30才位で、今のおれよりは全然若い。だから本当は、親ってたって完成された大人なわけじゃないんだよ。でも若くして親になった彼等には、自分達の産んだ子供と一緒に成長できるチャンスが与えられて、子供が育つ分当然親も精神的に大人になって行けるんだろうなと思うんだよね。昔、在り来たりの人生なんてものを憎んで軽蔑してたワタクシですが、その在り来たりこそが人間を大人にさせてくれるんじゃないのかなと。在り来たりで退屈に、とっとと結婚なんかして早速子供こしらえて、マイホーム買ったりマイカー買ったりと、退屈オンパレードでちっともうらやましくない生き方してる連中の方が、ちゃんと大人なんじゃないのかなと。おれみたいに、一人で好き放題ゆるゆるで生き続けてしまうと、キッカケをなくすんだよね、大人になるって言う。だからナリはデカくても脳みそは子供のまま。更にタチが悪い事に、そんな自分が結構好きだったりして。在り来たりで退屈だけど、然るべき年齢で然るべき状態に在ると言うのは案外大事な事なのかもね。遅ればせながら気付きました、ワタクシも。大体、いつまでも大人になれないなんて、ここザンジバルじゃ大問題だよ。生きてけないからね。厳しく生きる彼等はそれを良く分っていて、大人に対する健全な憧れや尊敬が自然んに備わっているんだよ。おれらの住む「こっち側」じゃ、大人も子供も関係ない。システムが生かしてくれるからな。退屈な大人になんかならなくても、金さえあれば、生かしててもらえるのさ。ならば子供のままいる方が楽で楽しいじゃない。糖尿だろうがヘルニアだろうが禿げだろうが加齢臭かろうが、中身は子供のままの方が楽しいのさ。飛べなくったってピーターパンでいたいのさ、ププッ!それが歪んだおれたちの側の暗黙の了解なんじゃないか。憧れるような大人すらいなく、国ごと大人になるキッカケを無くして右往左往してるのが、今のオレ達だ、きっと。 山田太一脚本で「早春スケッチブック」(1984年放送)と言うドラマがある。これが正に在り来たりで退屈な連中や世の中に毒を吐きながら死んで行く、子供のままの大人の話だ。主役の山崎努の凄みの在る演技が存分に楽しめるんだけど、最後には在り来たりで退屈の象徴、河原崎長一郎の大人っぷりに大きく包まれて死んで行くんだよな。なんか思い出した。20年も前だけど、インパクトあったなぁ。DVDBoxセット出たら買いなんだけどな。間違い無く70年代の石立鉄男シリーズに並ぶTVドラマの金字塔だ。 すれ違うのは、ウシにアヒルに子供達。古ぼけた公衆電話が良い味だ。道ばたでトランプに興じるおっさんの塊も良い味。通り過ぎて行くチャリ軍団も良い味。良い味に酔いしれていると、ラジオを手にしたこれまた味なおじさんが、こっち来いと手招きをしている。最高に訛った難しい英語で世間話。さっきビーチで手に入れた白い貝を見せると、負けず嫌いなのか、家へ入りモゾモゾと探した挙げ句小さな貝殻を幾つか出して来た。こりゃさすがに、おれの勝ちでしょ。たわいも無いこんなやり取りが本当に良い味だ。帰ってきた息子のTシャツの胸に何故か「柔道」の文字。当然これも凄くいい味。 村の一本道をサンパラを目指してトボトボと行く。大きく膨らんだオレンジ色の太陽が椰子林越しに見える。その反対側には、長ぁ〜く伸びた自分の影。もう夕方だ。金も無い、フリスクも無い、バンダナも無くなった。いろんな物が無くなりながらも、気分は満腹だ。いいね、憧れの「持たざる人」になりつつ、気分が満たされて行くなんて。本当は物欲の塊で、「持たざる人」の気分や風情や潔さなんかを更に欲しがってるだけなんだけどね。「持たざる人」に何故か魅かれるのは、彼等が何も持っていないからではなく、大事なモノだけはちゃんと持ってるからなんだろうな。こっちは両手一杯のガラクタ抱え込んで、前もちゃんと見えない状況でさ、そりゃ羨ましくもなるよ。でも、こうやって「持たざる人」の気分を味わっていればいつかそうなれるかもね。淡い期待、無理な目標。
|