zanzibar 31-3. dec. 2002
独りになってビーチをぶらぶらと歩いていると、一人の男の子が声を掛けてきた。アメリという、なんともメルヘンな名前の17才。左目が潰れているが、全体的には可愛らしい顔をしている。一緒にトボトボ歩きながら、お互い辿々しい英語で途切れがちな会話を交わす。ぎこちない沈黙を挟みながらも、家族や友達、学校や仕事、サッカーの話しをしながら二人で歩く。英語は学校で習っているらしい。と言ってもわしよりは上手いが。ぎこちない妙な距離感だが、不思議と嫌じゃない。ここに来た三日前、中途半端美人の白人女がシーウィードが汚くて嫌だと言って断っていた(シーウィードの意味が理解出来ない、する気のないバカ女め!)ロッジの前まで来たので、引き返すことに。途切れ途切れの微妙な会話をなぜか楽しみながら二人で歩いていると、突然アメリの友達が現われ「あそこに、魚が置いてあるから。」と、少し先の大きな流木を指しながら教えてくれた。指示通りそこまで歩いて行くと、かなり大きなエイの半身が艶かしく身をくねらせるように流木の上に置かれていた。バッサリと右半分が切り落とされていて、薄ピンクの肉厚な断面が生々しい。あまり見た事の無いエイのブッタ切り姿もインパクトあるが、エイを普通に食べるというのも少し驚いた。アメリが不思議そうに眺めるおれに気付いて、その優しそうな顔で微笑みながら「これは美味しいんだよ!」と教えてくれた。アメリの晩飯かな、これは。おれも明日サルーにリクエストしてみようかな。半身のエイを手に再び浜辺を歩いた。相変わらずのぎこちない会話の隙間を、素足で踏む砂の軋む音だけが、優しいリズムで埋めてくれる。村に近付いた頃、アメリが家へ来ないかと誘ってくれた。スカスカの会話と間の悪さに逃げ出したいんじゃないかと少し心配していたのに、意外な展開だ。断る理由などある訳が無い。喜んで招待されることに。ビーチを反れて村へ入ると、すぐにアメリ邸はあった。村の景色に馴染んだ普通の家。バナナの葉で出来たドアをめくって家の中へお邪魔する。「ジャンボォ〜!」と声を出し、屈みながら狭いバナナドアをくぐると、アメリの母親が笑顔で迎えてくれた。続いて、妹や弟達、お父さんも出て来た。「ハバリガニ〜!(ごきげんいかが!)」と挨拶を続ける。狭くて質素極まりない造り。家と言うよりは小屋だ。セメントで出来た狭い部屋とトタン屋根の台所。地べたは土が剥き出しのままだ。その上で直接火を起こしている。正にキャンプのような雰囲気だ。ここで家族7人も暮らしているとは恐れ入る。それにしても、唐突に息子が勝手に連れて来た人間を「カリブゥ〜(ようこそ!)」などと歓迎してくれる大きさや暖かさは、一体どこから来るのだろうか?ゴージャスでデカい家なら自慢がてら誰かに見せびらかす気にもなろうというものだが、言っちゃなんだがここはこの村ではたぶん普通の狭くて質素な家だ。もっと素直に形容すれば貧乏な家。なんでアメリが家へ呼んでくれたのかは分らない。意味不明だ。さっきまでのビーチでのぎこちない時間を共有しただけで何故だか知らないが、大切な家族に是非会って行ってくれと言うとは。別にアメリの部屋に上がり込んで、自慢のゲームやパソコンやバイクやプラモデル、はたまた秘蔵のエロ本などを異国の友人に大公開と言う訳でもあるまい。そもそもアメリの部屋なんてモノはこの狭い家にゃ無いし。アメリがおれに自慢出来るのは唯一、家族なんだろう。たぶん。無邪気で嬉しそうに、父親や母親、妹や弟、爺ちゃんなどを紹介する彼は、なかなかうらやましく見えた。持たざる暮らしへの憧れなのか、家族や懐かしい時代へのノスタルジーなのかよく分らないが、なんかイイ!と思った。挨拶や紹介、部屋の見物など一通りの事を終えると、基本的には言葉が通じないおれたちには、やる事が無くなってしまう。それでも、アメリ一家に何かお礼は出来ないものかと、みんなで写真を撮る事にした。家族の肖像ってやつだ。夜が近くまで迫って来ていて、なかなか撮影には厳しい状況だが、何かしたい(してあげたいではない!)と思い懸命にカメラと格闘するのだ。薄暗いファインダーを通して彼等の緊張しつつも嬉しそうな顔が浮かび上がって来た。それはなかなかにグッとくるイイ顔だった。 いわゆる貧しい国(GNPがどうのこうのと言うこちらの物指しで言ういい加減なヤツね)を旅していると、こういうもてなしや御招待は特別珍しいことではない。その度に感心するのは、隔たりのないとても暖かな歓迎振りだ。物珍しさは当然あるにせよ、突然子供が連れて来たにも拘わらずニコやかに迎えてくれる。言葉もろくに通じないが、なんだか満たされた気分になり、分り合えたような気分に包まれるのだ。しかし、内心では招かれた家が、貧しければ貧しい程に、そこでふれあった住人達との交流がなんだか特別に意味あり気に感じてしまう。それは、動物園に行けば珍しい動物を、お化け屋敷に行けば見た事もないようなお化けを期待するのと同じような感覚が、恐ろしい事にわしの中にあって、貧しい国へ来たら貧しい人々の貧しい暮らしが見たいなどと言う、悪趣味で奢った無意識の欲求があるのだろう。そこでは、ココロの奥底で何かを感じ大切なモノをもらったような気分になりつつも、その貧しさ故のギャップに、実のところ「そうそう、これこれ!」と、手を打っている自分を発見してしまうのだ。確かに、素直に満たされた気分になれるのは、モノに溢れ返り便利で進んでいるはずのわしらの世界に唯一足りない「何か」を見つけたり感じたり受け取ったりするからだが、しかしその一方で、満ち足りた世界に住む人間の無意識の奢りやエゴの底無しをも実感してしまうのだ。たまの会社の休みに大枚はたいてノコノコやって来て、わしらに足りない「何か」を堪能させてくれ!だから、「あんたらは、その良さを失わないためにも、このまま質素に素朴になおかつ暖かく暮らしててくれ。」なんて、無自覚にも思っているとしたら、こりゃ果てしなく底無しの恐ろしさだ。この地球には、わしらの「こっち側」の世界とアメリ達の住む「あっち側」の世界と、二つの世界がある。「あっち側」からは「こっち側」を自由に覗いたり堪能する事は出来ないが、「こっち側」からは「あっち側」へ自由に移動し楽しむ事(そう、楽しむ事がね。)が出来る。何かしらの渇きや違和感、理不尽や矛盾を覚えつつも、どちらが良いかと聞かれれば「こっち側」の世界を選ぶだろう。そう答えるしか無い。いくら向こうが真に豊かで暖かいと感じても「こっち側」の人間だよ、わしは。「あっち側」に憧れや思い入れ、はたまた同情(そう、上からのね。)を感じている一方で、「こっち側」の世界に染まって変わって欲しく無いと願う自分。「こっち側」の世界にない豊かさへの憧れの前に、無情にも傲慢に横たわる超ド級のメガトンクラスのエゴ。こんなセンチメンタルでひ弱な思考に溺れている事自体が、どうしようも無く贅沢な話なんだろうが、世の中そんなモンだと開き直るしかないのだろうか?アメリ一家に別れを告げ表に出ると、なんだか急にコーラが飲みたくなった。近所のガキに店まで案内してもらい、みんなの視線を痛いほど浴びて飲むコーラは、なんだか苦い味がした。 いつもと変わり映えしない晩飯を終えると、シャワーへ。さっきコーラを飲んだ雑貨屋でついでに買った石鹸で今日は久々に体をちゃんと洗ってみたいと思う。大晦日だしな。ここでの暮らしは、海で濡れるのが当たり前のため日中は海パン、その他はパンツ一丁だ。シャワーを浴びても寝て起きたら直ぐに海。なんか丁寧にいちいち身体なんか洗ってられないのだ。バカバカしいからね。風呂上がりに直ぐうんこするみたいなもんだ。ちょっと違うか?サルーにシャワーを浴びたいと目で合図すると、タンクの栓を開けてくれる。機嫌の良い時は勢い良く飛び出して来る水も、日によっちゃぁチョボチョボだったりと、お天気屋のシャワーだが、どうやら今夜のこいつは上機嫌そうだ。切り売りの恐ろしく泡立ちの悪い石鹸だが、やっぱりスッキリするね。これで、シャワーがお湯なら言うこたぁ〜ないんだが。久々に鏡を覗く。黒く焼けた顔に無性ヒゲがかなり伸びている。明日からは2003年。去年の大晦日は、ベトナムの田舎町でアジアンテイスト満載の歌謡ショーが気分を盛り上げてくれてたな。今年は年越しのテレビ番組がある訳でも無く、除夜の鐘も無い。さっき食べたのは、年越しそばとは程遠いカレーにチャパティだし、そういやぁアルコールにも随分とご無沙汰だ。「あるはず」の何かを上げつらって文句を言うのは簡単だが、落ちて来そうな星空と、静寂に彩りを添えるラジオからの雰囲気の良い音楽やスワヒリ語の響きに文句などあるはず無い。おまけにすぐそこの暗闇からの波音も最高だ。ここでは毎日繰り返される平凡な一日の終わり。そこに特別な演出は求めるべくもないが、この村の日常と旅行者であるおれの非日常。その交差点で考える事や思う事は山程あるのだ。なんとも実感の無い年越しだが、早くも旅の折り返し地点まで来てしまった。さあ、どんな年が来るのか?アッラーの神様よ、よそ者で申し訳ないが、おれにもイイ年をよろしく頼むぜ!
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